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戦略重視の戦いへ-ウクライナの戦線後背地クリミア内深部攻撃(3)

*)近代の戦争は国力の戦争
 近代の全面戦争は国力・産業力の戦いであり、武器・武力の優越性、継戦能力、経済活動維持はこれらに依存しているから、軍事施設以外の電力・エネルギー・通信・産業・食糧など基本的インフラ破壊が効果的な攻撃対象となる。太平洋戦争での日本はそのような戦略眼を持たなかった。逆に日本全土で該当施設が標的となり破壊された。
 今回のウクライナ侵攻では、ロシアにとってはそこまでの全面戦争ではないが、しかしウクライナにとっては国の中心部やインフラも攻められ、それに近い状況にある。


*)豐臣秀吉の戦争
 こうした軍事力の原動力・インフラを重視する戦い方は、ある意味で豐臣秀吉の戦い方に通ずるものがある。兵站重視の、より戦略的な戦争方法である。
 豐臣秀吉の戦争の方法は、武田信玄とも、上杉謙信とも、毛利元就とも、徳川家康とも違う。戦略重視による戦い、後の天下平定に向けた九州戦役、関東の後北条氏討滅・奥州平定などでは政治性も駆使した天下人・王者の戦いとも言うべき戦法を用いている。戦争というよりむしろ事業といった面もある戦争戦略である。


 こうした戦い方は「血を見るのは嫌いにて候(そうろう)」と言う秀吉自身の発想であり工夫でもあったのだろうが、それとともに、軍師・参謀の竹中半兵衛、黒田官兵衛もまた-彼らは敵方の誘降工作を図る調略などに力を発揮していたのだろうが-こうした視点からの戦略的助言・提案もしたのではなかろうか。


*)秀吉の中国経略事業
 豐臣秀吉が織田信長から中国方面軍司令官に任ぜられ、率いて行った時の軍隊は自軍の数は少なく、ほとんどがあてがわれた借り物の軍勢であった。
 毛利軍と対峙しながら山陽・山陰を転戦し、一気に決着をつけるイチかバチかの白兵戦よりも、周囲の支城をしらみ潰しにして敵を丸裸になった主城に押し込め(江州浅井氏小谷城、播州三木城干殺し等、以下も同様)、城攻めの勝負を土木の戦いに持ち込む(備中高松城水攻め)、あるいは経済の戦いとする(因州鳥取城飢(かつ)え殺し)戦法で、着々と獲得領土を拡大していった。
 水攻めを思いついたのは、黒田官兵衛ら部将からの提案だろうという説もあるようだが、秀吉自身の発想であることは間違い無い。
 若い時に近隣の野盗や地在野武士らを動員して、信長のどの部将も実現できなかった墨俣一夜城の築城をやり遂げ、これが出世の始まりとなった。水利・水防関連の土木事業には馴染んだものがあり、木材・米など物の値段や流通事情など庶民の下情には、竹中半兵衛・黒田官兵衛の両・兵衛よりも通じていたに違いない。彼らにはその生涯を通じて自れが主導して大土木事業を行った形跡はない。その得意とする持ち味はまた別なところにあった。


 五年後、本能寺の変の勃発で、明智光秀討伐に都に向け「中国大返し」を開始した時には、率いる軍勢は多くの戦績を挙げながらもほとんど兵力を損耗することなく、そっくりそのまま秀吉の軍隊となって天王山・山崎の合戦に戻って来た(井上宗和著「日本の城」等)。


*)諸葛孔明の天下三分の計
 三国志(魏, 呉, 蜀)の主人公・劉備玄徳は大志はあれどもいつも負けてばかりいた。
戦い利あらず、曹操の傘下に入った時、会食で「天下広しと言えども、天下を狙える真の英雄はわたしと君だけである」と曹操が言うのを聞いて、劉備は内心あっ!と驚いて思わず箸を落としてしまった。その後、劉備は再び曹操を裏切って飛び出し、曹操はあいつを生かしておいてはためにならないと討手を差し向けたが、うまく逃げおおせた。その後も鳴かず飛ばずで転戦していたが、識者が伏龍と称した諸葛孔明の噂を聞き、三顧の礼を盡くして訪問し、その説くところの天下三分の計の提示を受けて、初めて蒙を啓く(もうをひらく)思いがした。
 劉備は漢帝国再興の大望を抱き、多くの勇者に慕われ、長に立つ人徳もあったが、戦略的思考に長(た)けた人ではなかった。英雄の資性のある人ではあったが、長じてからも、あちらにつき、こちらにつきで一貫性の無いまま、地盤を得て立つことが適わず、かなりの年齢になっていたが、ここに至って初めて何をすれば良いのか目標を見通せるようになった。これこそ求めていたものと、諸葛孔明との水魚の交わりが始まった。


*)織田信長の桶狭間の戦い
 最近、織田信長の桶狭間の戦いは、これまで説かれていた説は誤りであり、奇襲ではなかったと、史実の書き換えが行われるのが正論となってきている。が、筆者は違うのではないかと思っている。
 信長はこの戦いの第一の殊勲者に、一番槍でもなく今川義元の首を取った服部小平太でもなく、配下の諜報組織を放(はな)って義元の居場所の情報をもたらした簗田政綱であるとし、功労第一として賞した。
 ここに信長が目指していたもの、何を重視したか、戦いを決定づけた勝因の本源はなにか、前日世間話に終始した信長の戦いに向けた有りよう-本質重視の織田信長の面目躍如たるものがある。
 前日には戦いについて何も語らず世間話に終始し、重臣達は運命が窮(きわ)まった時には何の良案も出て来ないのだ、と互いに自嘲し合って帰宅していた。


*)スパイゾルゲとスターリンの対ヒトラー戦争
 プーチンのウクライナ侵攻で、ロシアは思いのほか手こずって軍事力不足に陥り、ニュース映像によれば、北方領土も含めた極東地域から軍隊・軍事装備をウクライナに回送させているようだ。


第二次世界大戦時、スターリンはヒトラーの独軍にロシア内部深奥まで攻め込まれ、世界唯一の共産主義革命国ソ連は存続の危機に瀕した。国際共産主義組織コミンテルンから派遣されたゾルゲは記者として来日し、ドイツ大使館顧問にうまくなりおおせて諜報活動に従事した。
 特に機密技術や文書を抜き取ったというようなことではない。主として新聞記事の解析により、さらに当時の近衞文麿首相のブレーンであった尾崎秀実などに近づき、その裏を取ったりした。その結果、日本は南進策を取り、北進は無いと読み切ってモスクワに通報した。
 当時、ソ連は日本とは満州国を介して長い国境線を有し、張鼓峰事件やノモンハン事件など国境での軍事衝突を起こしていた。ゾルゲのもたらした情報で、ソ連軍は極東に配備していた軍事力をすべて西方に移動し、モスクワやスターリングラードでの対独攻防戦に投入することができるようになった。ドイツは西部戦線で連合国と、東部戦線でソ連と戦う二正面作戦を行う結果になったが、スターリンは対独戦線のみに全軍を注力することができたのである。


これがゾルゲの最大の功績であるが、しかしソ連の対独戦略に決定的な寄与をしたその意義は、モスクワからは特に認識された訳でもなかったようである。独裁者スターリンやソ連・コミンテルンのような巨大な共産主義機構の組織の上では、巨大組織の末端での活動というくらいのことであり、誰が何をというような個人を特定して評価するようなことでもなかったのだろう。
 重要な情報をもたらしたとしても、スパイは巨大なメカニズムの末端の一部品・歯車に過ぎないのであり、その扱い振りは織田信長の場合とは全く違う。
 戦後になってからは、勲章を追贈されたようだから、ソ連からその戦略的意義を正当に認められたものだろう。

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