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教条主義とフルシチョフ・ゴルバチョフ-人間の顔をした社会主義:ゴルバチョフ氏逝く(5)

*)共産主義革命の成功は皇帝専制主義の発達した大国でのみ成立か
 ソ連・中国・北朝鮮の共産主義国家では、壇上に並んで政治的(権力の)序列を顕示する。こうした習慣はどこから来たのか。古代から都市が城壁で囲まれている地域-西洋でも東洋でもほとんどがそうである-で生まれてくる発想ではないか。少なくとも日本では文化的にも精神的にも馴染まない習慣であるが、都市の形状からしても構造的にもあり得ない。
 これは民主主義的であるか-どうも違う。またヒトラー・ムッソリーニや、今日、中南米に多く見られる大衆の情緒的昂揚感に根ざしたポピュリズム運動による独裁権力保持者とも違う。
 こうした体質はロベスピエールで代表的に究められたフランス革命とも違う。そこでは人権宣言に見られるように、古代ローマ以来の選挙による議会での活動を主戦場とする西欧型共和制に基づく延長線上に位置付けられる。


平等と言いながら、全体を権力集中で統制する専制主義統治体制を象徴するものか。そうした体制の中で、誰が最高権力者か、人民にわからせるために編み出された表出方法か。レーニンが最初にそうしたのでそれを踏襲しているのか。
 中国歴代王朝、とりわけ北宋以降の王朝の官僚組織は皇帝権力を高め集中する皇帝専制主義にひたすら励んだ。そしてどんどんエスカレートする。
 ロシアや中国という専制主義の大国で共産主義国家が成立し得たのは、こうした専制主義の伝統のある風土・文化に根ざすところが大きいのではないか。妙に民主的な土壌風土であると-ギリシャ等-、プロレタリア独裁など成立し得ないのではないか。
 小国あるいは部族レベルの少数民族では国力・権力が弱過ぎて、皆平等などという制度ではやっていけない、あるいは成立してもすぐに他国に侵入され打ち倒される。大国では国力が大きく、しかも民主的分権制が未発達なほど権力の集中度が高く、権威・政治力は極限的に巨大になる。


この傾向は現代の習近平中国でも同様である。社会主義を標榜するが、権力を巡る手法は全く同じである。共産主義という政治体制は理論的にこうした形態・構造なのであるということではない。社会主義という仮面を被っているが、彼らの発想からは当然のこととして行っていることは、中国伝統の皇帝専制主義の統治スタイルを踏襲し再生産しているのに他ならない。
 人民を統制し、少しでも方向性が異なる分子がいると、その動きを早い段階で即座に摘み取り、官僚は皇帝(または習近平)の権力を高める方向に何も考えず日夜努力する。自民族の利益のみを取り計らい、他民族を隷属させることになんの抵抗も無く実行する。
  同様にソ連あるいはプーチンロシアは、ロシア帝国的発想で統制し、これが社会主義の唯一正当なあり方だとしているに過ぎない。


*)スターリン、毛沢東らの個人崇拝・教条主義とフルシチョフ、それにゴルバチョフ
 教条主義と正統・異端問題はつきものである。
中国はスターリン批判をしたフルシチョフを現代修正主義と非難し、それまでの鉄の団結を誇っていた中ソ関係は不倶戴天の敵のようになった。
 思えば、フルシチョフはスターリン主義や毛沢東主義のような教条主義的な人間ではない。ニーナ夫人と訪米した時、ディズニーランドに行きたいと言ったが、断られたとか、もっと大衆レベルでの即物的な考え方をし、主義のような形而上学的・抽象的理念を追求する人間ではない。


教条主義者は自己を正統として反対派・対立者・有力な競争相手を異端として、レッテルを貼る-曰く、帝国主義者、修正主義者、四人組、ナチ、ネオナチ、跳ね上がり分子、テロリスト、宗教原理主義者-。反対勢力や議論で負けそうになると、こうしたレッテルを貼りさえすればよい、理性も論理も無い、相手にこのような言葉を投げつければ、それだけで悪い人間と決めつけることができる。後は国家反逆罪、敵に内通した通謀罪、スパイ、国家機密漏洩罪などの罪をなすりつけて葬り去る。
 スターリンも毛沢東もこうした主義を掲げて、敵・反対者を処罰して権力の維持を図った。現在の習近平もますますこれに近くなりつつある。


教条主義者は概ね恐怖を、権力収奪、権力固め、反対者を蹴落とす手段に用いる。
 毛沢東の文化大革命は資本主義に走るという走資派からの奪権闘争と謳っているが、実際は法令・法規を無視した、現在のコンプライアンスなどという法令遵守とは真逆の法規外暴力闘争での権力闘争である。その手段として学校の少年・青年を紅衛兵と称して動員し、権力トップへの返り咲きを狙った。この体制が終熄したのは、毛沢東が死去し、四人組が逮捕されてからのことである。
 主義者には世界中で追随者が続出する。それは自分は正統であるとして自己擁護し、政敵を葬り去るのに都合が良いからである。


フルシチョフは追随者が出るのは難しい。行動予測が難しいからだ。またなにが基準かよくわからないところがある。
 自分は正統で反対者は異端とか言ったことがない。彼は党の方針・人事を巡って党内論争・党内闘争をしながらも、おべっかを使い昇進する現実主義者でもある。スターリンに近侍しながら粛清されなかったのは、政治力もあったのだろうが、上司に敵と思われずに相手の心を摑む人心把握術にも長けていたのではなかろうか。
 スターリン死後、敵・反対派と権力闘争をして打ち勝っているが、権力確立後は相手を異端と決めつけて葬り去るようなことはしていない。彼はむしろスターリン批判をして個人崇拝を攻撃したのである。
 ゴルバチョフもまた個人崇拝を強要するような教条主義者ではなかった。


*)教条主義の道を歩む習近平
 いまの習近平はスターリンや毛沢東の道を歩もうとしている。自分の名前を入れた主義を正しいと誰もが受入れ、崇め奉るべきものと銘記する。そして永遠に人民から鑽仰される至高の存在となることをめざし、歩一歩と歩みを進めていく。
 こうして人間の思考を強制的に一つに固定し、それ以外に踏み出さないようにセメントで固着するかのようだ。
 かっての社会・道徳を儒教で規定し、人々の思考のベクトルをすべて同一方向に向けてエスカレートさせていく皇帝専制主義・皇帝至上主義といったきわめて中国的な伝統思考様式であり、社会的形態である。
 人間の営みとしてこれが正しいという訳ではない。そうした思考・文化に馴染んできた民族・文明にとってはごく身近で得意とする、過去の時代から見れば時にあり得る形態なのであって、他の人類・民族・文化圏にとっては好みや得意とするところではない。教条主義者がこれが唯一最善の社会のあり方であるとして他民族や他文明に強制し世界覇権を握ろうとする野望は、当然受容できないだろう。

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